あなたが好きと思う事。楽しいと思う事。
僕が好きと思う事。楽しいと思う事。
それが同じだったら嬉しいですが、違っていても、それはそれでアリです。
ところが、僕は仲の良い友達であったり、居心地がいいと感じる相手であればあるほど、好きな事や楽しい事が同じであってほしいと感じてしまいます。
ワガママなのはボディだけではないんです。
ところが最近こう思うんです。
「好き」とか「楽しい」って、表現するだけで良いんじゃないの?
つーか、それだけしかできる事はないんじゃないの?って。
それが、自分と同じものを好きだと感じる友達や仲間を増やす唯一無二の王道じゃないのかなって思うんです。
「好き」な事に対する向き合い方

”「好き」と感じることを表現する”
これだけでOKじゃないの?ってのが今の僕が思っていることです。
”全ての人が自分が「好き」と思えることを表現している状態、状況”こそが大切だと思うんです。
逆に言えば、自分が「嫌い」と感じることを遠慮なく表現できる状態や状況というものも大切だと思うんです。
それはこんな理由から。
「好き」「嫌い」が分からないと共通点が見いだせない
好きとか嫌いの基準って人によってバラバラです。
他人同士で好き嫌いの部分が完全一致する事はあり得ないと割り切るほうが良いと思っています。
自分と共通点がいくつかある他人というのは親近感を覚えますが、全てが同じではないし、そうであるはずもないし、そうなる必要もないはずです。
だから・・・という部分が大切だと思っていて、それが、好きな事も嫌いな事も表現するって事だと思います。
もうこれは全ての国民に対する義務レベルです。
「あなたの好き、あなたの嫌いを何らかの手段で表現しなさい」
そういう法律が定められてもいいんじゃないかな?とすら思います。
自分と共通点を持つ他人という存在は、親しみを覚えます。
そういう存在がたくさん居ると孤独を感じませんし、人生が楽しくなります。
逆に言えば、自分と共通点を持つ人がいないと感じると、孤独感を感じて生きるのがつらくなります。
だから、他の人があなたを見つけやすくするために「好き」や「嫌い」を表現したほうがいいし、それは好きな事が同じという共通点を持つ人に囲まれて、分かち合える人生に繋がっていくことにもなると僕は思っています。
あなたがの「好き」が誰かを救うかもしれない
大げさに言えば「好き」や「嫌い」を表現する事は、誰かを救う事になります。
僕の女友達の話なのですが、うつで苦しんでいた時に、その状態から脱出できたのは、あるユーチューバーのゲーム実況動画だったそうです。
見ていて「ふふ」って笑えたこと。
それがキッカケでうつから少しずつ立ち直れたそうです。
そのユーチューバーは、誰かを救うためにゲーム実況をしているわけではなく、好きなことをただ好きだと感じるままに表現しているだけです。
それが誰かを救いました。
誰かを救おうなんて思わなくても、好きを表現しているだけで、いつかどこかで誰かを救う事があります。
ちなみに、その女友達は、自分を救ってくれたユーチューバーさんを超絶に応援しているファンの1人です。
そのユーチューバーさんは、好きを発信しているだけで超絶に応援してくれるファンが1人増えたということです。
好きになれた事は誰かの好き
何かを好きになる時。
そのキッカケには、それを既に好きな誰かの純粋な熱というものがあると僕は思うのです。
例えば、僕がBOOWYというバンドのビデオを友達の家で見たことがキッカケで、一瞬で布袋寅泰さんのギタープレイに魅了され、その後の夏休みにバイトしまくってお金を貯めてギターを買いました。
当時の僕は、布袋さんの楽しそうにギターを弾いている姿に魅了されました。
おとなしく立って弾くのではなく、胸元あたりの高さでギターをぶら下げて弾くのでもない。
本人がカッコいいと思うプレイをする。ただそれだけ。
そんな布袋さんに魅了されました。
好きになるキッカケって、それを好きな誰かの純粋な熱にあてられた時であって、「これを好きにさせよう」という意図的なものでは誰かを好きにさせられないと僕は思うんです。
だから、あなたが好きと思う何かを表現する事だけで、他の人がそれを同じように好きになるキッカケを作ることになるかもしれません。
それを好きになれた人は、「生きててよかった!」と思えるぐらいに人生が楽しくなるかもしれません。
それに、同じ何かを好きになる人が増えてくれれば、あなたと共通点を持つ友達候補がたくさん増えたって事でもありますよね。
好きを表現する事は、友達や仲間が増える事にもつながります。
できる事は「変える」ではなく「伝える」
好きな事をどう表現して行くのか。
その伝え方の部分は、あれこれ悩んで考えて、工夫していくことが大切だと思います。
ただそれは相手を変えるためではないと僕は思っています。
何もわからない相手にも、面白さや良さをわかりやすくするために工夫するのであって、相手も同じことを好きにさせる事が目的になってはいけないと思っています。
なぜなら、好きになる事は理屈じゃないからです。
僕は布袋寅泰さんのギタープレイを見てギターが好きになりましたが、なぜそれが布袋さんだったのかと言われるとわかりません。
見て聞いて「かっこええ!!」って思ったからです。
理屈云々じゃないんです。
同じように、布袋さんのギターを見て「ほら、お前も好きになれ!」とも思いません。わかる人だけが好きになればいいんです。
あなたが好きな何かもそういうものではないでしょうか?
理屈から入ったんじゃなくて、気づけば好きだった、みたいな。
理屈で好きにはなりません。
相手にも自分を同じ何かを好きになってもらおうとしても、そう思い通りにはいかないものです。
ただ、見た事も聞いた事もない何かを好きにはなれません。
何かのキッカケで見て、聞いた事で好きになります。
そのキッカケを作ったのは、既にそれを好きな誰かだと思います。
自分の好きな何かを伝えるために表現する。
それだけが大切な事なのだと僕は思います。
好きな事を表現する事が友達作りや仲間づくりに繋がる理由まとめ
何を好きになるのか、ならないのか。
これは本人の意志ではなんともならない部分です。
理屈でそれを好きになるわけじゃありません。
感性が「好き!」と感じたから好きなのですから。
それ以上もそれ以下もありません。
だから、自分が好きであっても、他の人が同じようにそれを好きと感じるのかどうかは別問題です。
好きになれないものは、好きになれないんです。
他人が自分と同じ何かを好きになれるのかどうかはコントロールできないのだという、一種の割り切り、諦めを持つ。
そこが先ず大切だと思います。
そして、自分が好きだと感じる何かを楽しむ。それを表現する。
そうしているうちに、同じ何かを好きだと感じる人が増えたり、見つかったりしていきます。
ブログに好きな事を書こう!というのは、まさにそういう事につながる一歩になるからだと思います。
書いているうちに、同じ感性や価値観を持つ人がヒットしたり、自分自身が表現した何かに新たに刺激を受けて興味を持つ人が出てきたりして、気づけば仲間や友達が増えているので、だから発信しつづけましょうねって事になります。
(その手法が今はSNS、動画と多岐にわたってますが、やろうとしている事は同じですよね)
賛同者や理解者が今は居なくても、時間差で賛同者や理解者が出てくる事があります。
また、影響や刺激を受けて、新たな賛同者や理解者となる人も出てくる事もあります。
だから好きな事はどんどん表現していこう!
好きを表現する事で、自分の世界はどんどん変わっていく。
僕はそう信じています。